統一王朝の歴史
先史時代があった。人類は石器を発明し、狩猟採集を主体として生活していた。農業の概念はあったと思われるが、詳しくは分からないのと、そこまで農業に頼れるほど効率が良くは無かったと思われる。
前10000年頃、第4氷河期が間氷期になったことをきっかけに、農業が豊かになった。
以前から情報伝達のための「発声」「発音」そのものは存在していただろう。あらゆる動物において、発声によるコミュニケーションは存在する。
アナトリア仮説によると、前9000年頃から「話し言葉」としての印欧祖語が体系化されてきたということである。しかし、文字として記録する技術が無かったか、あるいは文字が存在していなかったため、歴史には残っておらず、あくまで推測して再構築するのみである。
前5000年頃からシュメールで灌漑農業が発展して、穀物の「余剰」が発生した。余剰が発生すると管理の必要性や余剰穀物を巡った争い、および都市が発展した。都市が複数乱立すると、強大な力を持った国が統一するようになった。
具体的には、前5500年から前3500年のウバイド文化期に都市が生じていた。
前3500年から前3100年は都市ウルクが特に栄えたウルク期と呼ぶ。
前3100年から前2900年の、空白の200年のような時期は、ジェムデト・ナスル期と呼ばれている。
そして、とうとう「王朝」が誕生したのは、前2900年の都市エリドゥにおける初期王朝とされている。初期王朝時代は前2900年から前2400年頃と言われている。
前2500から前2400年頃と推定されるが、ウルク第2王朝の王であるエンシャクシュアンナは、史上初めて「国土の王」の称号を得た。これは支配領域が複数の都市にわたったからである。とはいえ、これは通常「帝国」とよぶほどではなかったこととして「帝国の王」とは区別されている。
また、同じく国土の王と呼ばれる稀有な王がルガルザゲシである。前2300年前後に在位したウルク第3王朝の王である。しかしこれも、ウルク帝国などとは呼ばれる規模ではなかった。
そして、ルガルザゲシは、アッカド王のサルゴンに敗北した。
ここで、最古の「統一国家」が生まれた。アッカド帝国(前2334年から前2154年)と言われている。アッカド帝国が統治した地域は、南メソポタミアの大半と占めるバビロニアの北半分であるところのアッカド地方はもちろんのこと、南メソポタミア南部のシュメール地方をも含んでいた。
前2154年にアッカド帝国は滅びた。カナン部族であるアムル人や、ザグロス山脈の山岳民族グティ人、同じくザグロス山脈沿いのエラム人(前2700頃から存在し、前539年にアケメネス朝ペルシアに滅ぼされるまでずっと、ペルシャ湾沿岸にて一定の地域を維持し続けた。)に滅ぼされたとされている。
さて、イラン高原南西にあるザグロス山脈に住む民族が、アッカド王朝を滅ぼして作った王朝をグティ王朝とよんでいる。この時点で紀元前2100年前後と言われている。ただし、通常はグティ帝国という呼ばれ方はしていないようである。すなわち、王朝が滅びた後の遺構は確かに手に入るのだが、確実に統治できるかどうかはその後の治世次第なのである。
ウル第3王朝(5代目)かなり重要な王朝である。前2112年頃の将軍ウルナンムが初代ウル王を名乗った。2代目シュルギ王は前2094から前2047の50年ほど治世を行い、アッカド帝国並みの勢力図を回復した。王権の交代に伴い次第に衰退し、アムル人であるイシュビ・エッラが権力闘争に勝ったりもした。結局、終止符を打ったのはエラム人の王キンダトゥであった。ウル王とイシン王は一時的に手を組んで戦ったが、結局は勝てず、ウル第3王朝はここで滅びた。ウル第3王朝は帝国と呼んでも良いのかもしれないが、通常、そのような呼ばれ方はしていないようである。
上述の通り、アムル人の勢力もまた強く、イシン王朝(14代目)(アムル人国家)が成立した。
この時点で口語のシュメール語が死語になったこと、アッカド語が支配的になること、実質的に、いわゆる「シュメール人」が歴史から姿を消すことから、シュメールを中心とした歴史はいったん幕を下ろす。
まとめると、アッカド帝国が最古の統一国家であり、それに準ずるのがウル第3王朝(5代目)であった。
古アッシリア
紀元前1975年ごろ、古アッシリアが誕生する。地理的には北メソポタミアに位置する。南メソポタミアにおけるシュメールの成功に伴い、北メソポタミアにあるアッシリアは、交易の要所のひとつであり、勢力を増していた。
紀元前1975年というのは、
・北メソポタミアのアッシュールを中心とする古アッシリア
・地中海東部沿岸の北部に位置し古アッシリアの西部に位置するヤムハドとその南部のカトナ(現代のトルコ(アナトリア)西部)
・南メソポタミアのイシンやウルといったユーフラテス川沿岸の重要都市を含んだバビロン
・バビロン北部でチグリス川沿岸を含むエシュヌンナ
・チグリスユーフラテス川の合流地点およびペルシャ湾沿岸に位置するラルサ
これら6つほどがメソポタミア一帯を治めていたと考えられている。
紀元前1813年にアムル人のシャムシ・アダド1世がシュバト・エンリル市を築いてアッシリアを強大な王国にした。やはりアムル人の強い勢力は上述のシュメール時代の終焉のイシン王朝から続いていたようである。
中アッシリア時代
後継者には恵まれず、中アッシリア時代となった。
アッシリアの勢力は一時的とはいえ弱まっており、前1365年においては、「インド・ヨーロッパ語族の大移動」によって紀元前1500年頃に作られた「ミタンニ王国」に従属せざるを得なくなっていた。このことは、そもそもアッシリアが通商路の要衝であることによって栄えていたからこそ、その分、民族の大移動による影響を大きく受けるという国の癖によるところが大きい。
ただし、アッシリアの勢いは、ヒッタイトのシュッピルマウリ1世が前1365頃ミタンニを攻撃してミタンニが弱体化したことで、再び復活することになる。
補足:ミタンニ王国は、前1500年頃にフルリ人が北メソポタミアおよび北シリア周辺において作り上げた強国。ワシュカンニを首都とする。アッシリアを長らく(前1400年前後)支配下におき、エジプトとも互角に渡り合った。しかし、ヒッタイトによって西半分を失った。残り東半分はハニガルバトと改称された。ちょうどこのころアッシリアの勢力復活もあり、アッシリアが一時ハニガルバトを支配下においたこともあって、ハニガルバトはむしろヒッタイトと組んでアッシリアと争った。しかし結局ハニガルバトはアッシリアの属州となったことで、ミタンニ王国は滅亡したと言われている。
補足:ヒッタイト王国は、前1750-前1190まで。前17~16世紀の古王国と前15世紀~前12世紀の新王国に分けられる。前1375~1335のシュッピルマウリ1世の時代に、特に領土拡大にいそしんだ。前1285頃のカデシュの戦いではエジプトとも激しく争い、結果的には痛み分けとなり、一時的に平和な時代もあった。しかし前1200年のカタストロフによって前1190年、海の民によって首都ハットゥシャが陥落したことで、ヒッタイト王国は終焉を迎えた。
中アッシリア時代は紀元前934年まで続いたと言われている。
結局のところ、前1500年から前1300年頃までのミタンニ王国、前1700年頃から前1190年頃までのヒッタイト王国、そしてアッシリアと強大ながらも統一を成し遂げるような帝国とみなされる王国は出現していないとみなせるのである。
なお、古代エジプト(前3000年から前30年)は強大な国ではあったが、エジプトの領域を出て統一を成し遂げるとまではいえず、こちらも統一国家とまではいえないかもしれない。
古代エジプトのアマルナ宗教改革とアッシリア
さて、古代エジプトの第18王朝時代、すなわちアメンホテプ4世が治世していた紀元前1417頃から紀元前1362年頃までの時代を、アマルナ時代という。首都がテルエルアマルナにあり、太陽神アテンを信仰するいわゆるアマルナ宗教改革が語源である。
このアマルナ時代において、栄えていた王国は、
・紀元前1500年頃からのミタンニ王国
・現代のギリシャのペロポネソス半島にて栄えたアカイアおよびミケーネ
・紀元前3000年の第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマに滅ぼされるまでに栄えた古代エジプト(第18王朝、アマルナ宗教改革)
・紀元前1600年から紀元前1180年に栄えたヒッタイト帝国(特に紀元前1350年頃に栄えた)
・カッシート人によって紀元前2000年頃から栄えた、南メソポタミアに位置するバビロン。特に、紀元前18世紀頃のバビロン第1王朝は強大で、メソポタミアをハンムラビ王が統一した。そのことから、メソポタミア南部そのものが、バビロニアと呼ばれるようになった。
・北メソポタミアのアッシリア。紀元前1365年以前においてはミタンニの支配下にある小国であった。
この時代に、アッシュール・ウバリト1世が、ミタンニの支配からアッシリアは独立を勝ち取ったのである。
さて、ミタンニの遺領を獲得した流れで、バビロニアに勝利し、ヒッタイトにも勝利したことで、アッシリアは強大な王国となった。
ただし、完全に制圧したわけではなく、アッシリアが強大な王国となったにすぎず、ヒッタイト王国や、地中海東部(シリア)まで勢力を伸ばしていた古代エジプト、および古代ギリシャの勢力は依然として強かった。
紀元前1200年のカタストロフ
この頃、紀元前1200年、「カタストロフ」と呼ばれる社会変動が生じた。分裂や戦争が増えた結果、ヒッタイトがほぼ独占していた「鉄器の生産技術」は、周辺地域に広がりを見せ、このことが青銅器時代の終焉を告げることの引き金にもなった。
なぜ他の時期でも戦乱が生じているのに、この時期だけ「カタストロフ」と呼ばれるかといえば、原因不明にも関わらず大きな経済的衰退や混乱が生じたからである。
諸説あるが、気候変動説、地震説などがある。
大きくは、ヒッタイトの崩壊、詳細不明な「海の民」の出現、ギリシャ文明の一部崩壊、が挙げられる。
ヒッタイト崩壊は諸説あるが、気候変動や地震による飢餓、海の民による攻撃が有力である。特に、アナトリア地方(トルコ)はもともと地震が多い地域であった。
海の民はエジプトにも攻撃した。ただし、古代エジプトは紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマに滅ぼされるまで続いたことから分かる通り、この攻撃によって古代エジプトは崩壊したわけではない。
ただし、この時期エジプトにおいても飢饉が生じていたと言われてはいる。
なお、このときパレスチナに海の民であるペリシテ人がすむようになったことは後々の都市建築および鉄器製造に影響を与えた。また、海の民はいわゆる「略奪者」とも限らず、むしろ能力的に優れている一面もあった。
紀元前1300年の時点ではギリシャのミケーネ文明は栄えていたのだが、紀元前1200年頃には、ミケーネやティリンスは破壊され、住処を追われたミケーネ人はペロポネソス半島でも北部の山「アカイア」などに移動したことが指摘されている。同時に、クレタ島などの島々に移動したことで、結果的にミケーネ文明は崩壊したとされている。
諸説あるが、ミケーネ文明は破壊されたというよりは、気候変動を受けて、自然に崩れたとするのが比較的有力である、
ギリシャにおいて紀元前1550年から紀元前1200年頃まで用いられていた「線文字B」はほぼ失われた。
良くも悪くも、ヒッタイトの崩壊によって独占状態であった製鉄技術が各地に広がり、そのことが各地の勢力図を、当時の気候変動や地震の影響と相まって、大きく変えることとなった。
ヒッタイトは崩壊、ギリシャは衰退、アッシリアはかろうじて存続、エジプトは衰退、そういった流れが生じたのであった。
とってかわるように、一時的に、そもそもの「王国社会」にかげりが生じ、再び「村落的社会」が形成されたことも示唆されている。
その結果として、トルコ東部のウラルトゥ(紀元前900年から585年)(アッシリアと覇権争い)、トルコ西部のフリュギア人、トルコ西部沿岸部のリュディア、シリアのアラム人、パレスチナのイスラエル人の台頭が生じたと言われている。有名なソロモン王(イスラエルの3代目の王)もこの時代の即位。
そして、紀元前1200頃のヒッタイト滅亡ののち、アナトリアにおいては上述のアナトリア東部のフリュギア人とシリアのアラム人が協力してアッシリアに対抗する勢力図といったんなり、紀元前800年頃までは栄えていたのだが、紀元前700年頃、結局はアッシリアに敗北して滅亡した。結果的に、アナトリア(トルコ)最西部の「リュディア」が遺領を獲得し、アナトリアの大部分を占めることとなった。
ヒッタイトは確かに滅亡したが、その人々がシリア北部において新ヒッタイトを形成したといわれている。ところが、シリアのアラム人の力が強く、紀元前1000年頃には新ヒッタイトともアッシリアとも渡り合ったといわれており、どちらかといえば、シリアやメソポタミア南部においては、アラム人の勢力が強かったとされる。ところが、この頃、アラム人に類するカルデア人が新バビロニアを作った一方で、アラム人による「国家」は形成されなかったとされている。
上述のイスラエル王国は紀元前1200年頃から存在する「イスラエル人」によって紀元前11世紀後半に作られ、ソロモン王の時代に特に栄えた。しかし、ソロモンが死ぬと、イスラエル王国だけではなく、ユダ王国が分裂したのであった。
ユダ王国は紀元前1000年頃から紀元前600年頃に存在し、南部に位置することから南王国とよばれることもある。むろん、北王国はイスラエル王国を指す。
イスラエル王国は紀元前720年頃にアッシリアによって滅ぼされ、ユダ王国は紀元前590年頃に新バビロニアによって滅ぼされた。
アッシリアは、紀元前1400年頃はミタンニへの対応に追われていたが、ミタンニがヒッタイトによって攻撃を受けることで、勢力を増すことに成功した。紀元前1300年頃において、アッシリアはエジプトと交渉したが、結果的にエジプトはヒッタイトと交流をもつこととなった。その後、前1200年のカタストロフの影響を含め、紀元前1200頃から紀元前800年頃まで、衰退と繁栄を繰り返しつつも、何とか勢力を保つことに成功した。
紀元前1200年頃に生じたエラムはメソポタミアにおいて、紀元前2000年頃から一定の勢力を有していたカッシト朝を滅ぼした。
紀元前1154年頃に勃興したイシン第2王朝(バビロン第4王朝でもある)におけるネブガドネザル1世は有名な王であった。彼の活躍でバビロニアはエラムを追い出すことに成功したが、彼の死後、結局はシリアのアラム人によってバビロニアは崩壊寸前まで追い込まれた。(なお、後の新アッシリア時代においてアラム人は強制移住されることになってしまったが、しかし、アラム語が国際的に商業のために使用される言語となるきっかけともなったとされている。)
その一方で、エラムはむしろ栄えていた。そして、紀元前12世紀末には、イシン第2王朝を滅ぼすことに成功した。
さて、ミケーネ文明は衰退したが、その代わりにシリア西部地中海沿岸に拠点を持つフェニキア人が地中海全体を制したとされている。
もともと紀元前1450年頃から紀元前1200年頃までは地中海交易の拠点であるパレスチナを中心として「ウガリット」が独占的に動いていた。イスラエル人と混住していたとされるカナン人(諸説あり。カナーン人とも)の末裔とされるフェニキア人は、ミケーネ文明の衰退および時代の混乱に乗じて、活動範囲を一気に広げた。
カタストロフによって古代ギリシャは衰退しつつも新たな社会構造の構築を余儀なくされ、結果として「ポリス」が発生し、古代ギリシャ文明が再び繫栄するきっかけにもなった。
新アッシリア時代
前934年から前609年を新アッシリア時代とよぶ。前1200年のカタストロフの影響はまだ残っている。
古代オリエントの歴史において、資料が非常に豊富な時代の一つでもある。特に強大な帝国になったのはティグラト・ピレセル3世の時代と言われている。
良くも悪くも、当時の新アッシリア時代の統治には、文化や言論及び宗教の統制や強制移住などの手法がなされた。
新アッシリアも一強体制ではなく、エラムの支援を受けたバビロニアに何度も反乱を起こされた。
いろいろあったが、エサルハドン(前680から前669)の時代には、とうとうエジプトの一部を含めてオリエント世界の統一に成功したとされている。エサルハドンの後継者にアッシュルバニパル(前668年から前631年即位)が選ばれ、スサの戦いによってついにはエラムをも滅亡させた。
しかし、アッシュルバニパルに関連して内乱が生じることもあった。それに加えて、スキタイ人(紀元前800年から紀元前300年頃に栄えた、現代のウクライナにおける遊牧民族)からの圧力、内乱、紀元前625年の新バビロニアの独立および新バビロニアからの攻撃、メディア(??(前1000年頃?)~前550年。現代のイラン北西部)からの紀元前612年頃の攻撃によって、とうとう首都ニネヴェが陥落した。
アッシュルバニパル死後20年くらいで、前609年頃にアッシリアはとうとう滅亡する。