古代エジプト
古代エジプトは、オリエントにおける興亡をよそに、かなり独立して発展しており、紀元前3000年頃に始まった第1王朝とよばれる上エジプトと下エジプトを統一した王朝が、紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマによって滅ぼされるまでの時代を指すことが多い。
ただし、おそらく紀元前5000年ころにおいてもエジプトで農耕および階層社会は形成されていると思われる。第1というのは、仮に第1と呼んでいるだけであり、これ以前にも王朝のようなものは存在していたであろうことが示唆されている。
良く知られるように、エジプトは当時から砂漠地帯であった。しかし、ナイル川は夏に毎年増水して氾濫するため、ナイル川周囲では農耕や灌漑が可能であった。
川の周囲にしか居住できないという制限は、かえって船を用いた移動という盛んな交流を生むことにもなった。そういうこともあって、エジプトの統一国家の頑健性が生じたともいえる。
もう一つは、地理的に孤立していたこともある。城壁によってエジプトを守らずとも、地理的な孤立および砂漠、そして川の氾濫によって、異民族にとってみれば、侵入しづらい土地であるから、エジプト統一国家は守られ続けた。
さて、紀元前5000年ころから部族国家のようなものが農業の発展とともに生じたと考えられている。紀元前3500年頃には、上エジプトと下エジプトの統一国家が存在したと言われている。
エジプトにおいてナイル川の毎年の氾濫のタイミングを推察することは死活問題であったため、天体観測、天文学、太陽暦の普及、それを可能にする文字体系の確立がなされることとなった。
紀元前3300年ころにはヒエログリフとよばれる文字体系ができあがったといわれている。
有名なピラミッドについてであるが、最古のものはジェゼル王のものと言われており、それは紀元前2650年頃のことと言われている。これは、王権の強大さを物語っている。
その後、スネフェル王、クフ王、カフラー王、メンカウラー王がピラミッドを建設させた。
このように、第1王朝(仮)から第6王朝までを古王国時代と呼び、紀元前2200年頃に第6王朝が崩壊した。
第7王朝から第12王朝までは基本的にエジプト内部での興亡であった。特に第12王朝は長い平和が続いたと言われている。紀元前1800年ころに第12王朝が崩壊することで、中王国期とよばれる時代が終わった。
第13王朝から第16王朝までは比較的混乱期が続いた。
紀元前1540年頃になると、第17王朝は南北エジプトを統一することに成功した。これは第18王朝から第20王朝まで続き、新王国時代と呼ばれている。
なお、この頃、パレスチナをも統一している。進出の手はシリアにも伸びていた。
こうなると、ナイル川流域で栄えたエジプト王国というよりは、「帝国」としての性質を有するようになる。
また、紀元前1530年頃には、ティグリス・ユーフラテス川流域の「ミタンニ」をも侵攻した。なお、地理で言うと、現代でいうところのトルコ東部(黒海南部沿岸)から南東方向に比較的並行する形で伸びてペルシャ湾に注いでいる。
途中、シリア、パレスチナはエジプト帝国から離反することもあったが、有名なメギドの戦い(カナーン軍との戦い。カナーンは現代でいうところの、地中海東沿岸、レバノン、イスラエル、シリア西部、ヨルダン西部あたりを指す。)によって、やはりエジプト帝国に取り込まれていった。
ここで、神アメンを含めた多神崇拝に基づいた神官の勢力を抑え込むために、太陽神アテンの一神崇拝に改める「アマルナ宗教改革」が執り行われた。これが紀元前1350年ころの話である。
一神教は、実はこのアテンが世界最初と言われており、後の宗教に影響を与えた。
ただ、そうやって国内の統治に気を取られている間に、「ヒッタイト」にシリアやパレスチナの地方を奪われることとなった。
有名なツタンカーメン王は紀元前1333年頃に即位して、アメン信仰を復活させた。
古代エジプト最大の王と呼ばれるラムセス2世は紀元前1280年頃に即位した。カデシュの戦いではシリア北部においてヒッタイトと戦闘した結果、「最古の平和条約」が結ばれたとされている。
この頃が、エジプト新王国が最も栄えた時期と言われている。
しかし、紀元前1070年ころに第20王朝がほろび、この頃に新王国時代も終わったと言われている。
なお、古代エジプトそのものは、まだ1000年ほど続くのであるが、基本的には「弱い」状態であったと言われている。
第21王朝から第31王朝まで古代エジプトは続いた。
特に、紀元前655年に、当時「アッシリア(北メソポタミア)に従属」していた王朝が、独立を果たしたことは重要である。
アッシリアは当然ながらその後滅亡したのであるが、遺領がエジプトだけでなく、
・新バビロニア
・リディア(リュディアとも。現代のトルコ西部。世界初の硬貨を用いたことで有名)
・メディア(現代でいうと、西はザグロス山脈を含むトルコ東部、イラク、イラン、北はアルボールズ山脈を含むアゼルバイジャン、アルメニア、東はイラン高原のカヴィール砂漠(パキスタン、インド、アフガニスタンの一部)、南はイラン高原の中央部、というかなり広大な領域)にも分割された。
さて、紀元前550年には、圧倒的な力を持つアケメネス朝ペルシャのキュロス2世によってリュディアおよび新バビロニアが滅ぼされた。さらには、紀元前525年に、とうとうエジプトはペルシャに征服された。
その後、ペルシャによるエジプトへの圧政やエジプトの独立など不安定な時期が続いたが、紀元前332年、古代ギリシャが紀元前700年頃に築いた帝国であるマケドニアの王であるアレクサンドロス3世によって、エジプトは制圧された。むろん、これはアレクサンドロスがペルシャを滅ぼしたことも意味する。
アレクサンドロス3世の死後、後継者争いであるところのディアドコイ戦争が生じたが、後継者の一人であるプトレマイオスが紀元前305年にプトレマイオス朝を建国した。
プトレマイオス朝も、もとは古代ギリシャ人であることに注意。
ギリシャ人の祖先は、「ヘレーン」であるという神話があり、古代ギリシャ人を主体とした文化はヘレニズムと呼ばれている。プトレマイオス朝も、もちろんヘレニズム王国である。
その他、紀元前312年、後継者の一人、セレウコス1世が(プトレマイオス朝の7年前)が、シリア、バビロニア、アナトリア、イラン高原、バクトリア(中央アジア。オクサス川とヒンドゥークシュ山脈に囲まれた領域)を含む地域にセレウコス朝シリアを築いた。これもヘレニズム王国である。
紀元前306年には、後継者の一人、アンティゴノス1世の子孫が、アンティゴノス朝を築いた。これら3つを、ヘレニズム3王国と呼んだりする。
なお、紀元前218年において、地中海周囲で勃興していた帝国をまとめておこう。
・エジプトおよび現代のパレスチナ、トルコ南部の一部を支配していたプトレマイオス朝
・現代のトルコの大半、シリア以東の大部分を支配していたセレウコス朝
・現代のギリシャ北部を支配していたアンティゴノス朝
・現代のイタリアを支配していたローマ(帝国)
・ローマ帝国と激突しており、地中海貿易で栄え、造船技術に優れた「カルタゴ」。フェニキア人による国家であり、現代のチュニジア共和国の北部を中心としていたが、現代のスペイン南部やアフリカ北岸、イベリア半島の南部をも支配していた。
・アナトリア西部(トルコ西部)に紀元前282年から133年まで存在したヘレニズム国家である、アッタロス朝ペルガモン。セレウコス朝から独立した国家であるが、支配領域はあまり広くは無かった。
さて、プトレマイオス朝は、シリアをめぐってセレウコス朝と何度もシリア戦争を繰り返し、疲弊した。
有名なクレオパトラ7世(単にクレオパトラといえば彼女を指すと言われる)は紀元前51年に即位した。しかし、紀元前31年にローマ軍にアクティウムの海戦にて敗北してアレクサンドリアが陥落したことで、プトレマイオス朝は終焉を迎えた。
エジプトには常に独立王朝の興亡がみられたが、とうとうローマ帝国に従属することとなった。