先史時代の次:古代オリエント
氷河期の変化と農耕の出現および灌漑農業
先史時代が終わるのは、語学の発達のみならず、その定義から当然、「記録を残す技法」の発達が必要であり、そのためには、どうしても中央集権的な「国家」の勃興を待たなければならなかった。
しかし、狩猟採集によって何とか生存していた人類が国家を形成するゆとりは無かったであろう。
大きなきっかけとなったのは意外かもしれないが、氷河期である。
第四氷河期が前10000年頃から間氷期に入った流れによって、農作物は豊かになったのである。そういう意味では、この間氷期以前には、きわだった文明が存在していない(文明が発展するほど生存にゆとりがない)ように捉えても、差し支えないかもしれない。
逆に、紀元前10000年以降は、何らかの文明が開化していた可能性は常に模索されるべきである。
もちろん、農作が成功していなくとも、狩猟採集や、放牧によって、一部の人類はそれなりに問題なく暮らしていた。
また、農耕の出現によって、ただちに階級社会が生まれたわけではなく、しばらくは、上下関係などない単純農耕社会が形成された。
大きな転換期となったのが、特に天水農耕よりも農耕効率のはるかに高い「灌漑農業」が発明されたことである。これがおそらく紀元前5000年前後である。
灌漑農業は、降水量が低く、灌漑農業と相性の良い土地でしか成立しない。そして、その土地は南メソポタミアにあるシュメールであった。
シュメールでは穀物が余った。余った穀物を用いた畜産も成功したが、なお穀物が余った。
余った穀物は、穀物の管理の必要性を生んだ。最初のうちは廃棄していたかもしれないが、人類の脳、特に視床下部には様々な「欲」がある。余剰穀物を見たときに、何らかの先の世界を見た者がいたとしても不思議ではない。
余剰穀物から生まれた「ゆとり」は、余剰分を他の人類に分け与える流れを生み、シュメール周囲の飢餓状態の人類が狙う隙を生み、シュメール人自身を守る必要性を生んだ。
結果としてシュメール人は集落を生み、行政を生み、絵文字による情報伝達や会計の必要性を生み、上下関係を有する「都市システム」を生み出した。そのことによって、一定の秩序だった余剰穀物の交換システムや貿易、交易、商業のようなものが徐々に発達していったのである。
記録の必要性も出てきたため、シュメール人は楔形文字を発明した。
都市はシュメールに一つではないから、シュメール内において都市どうしの競合が生じた。シュメールにおける余剰農作物を欲しがる者が生まれるため、シュメールの外においても都市が生まれた。都市どうしの競合が生じると、軍事や政治の必要性が生じた。そういった文明の発展と都市の興亡を総合してメソポタミア文明とよんでいる。
地理についてだが、オリエントというのは、北メソポタミアであるアッシリア(現代のイラク北部)、南メソポタミアであるバビロニア(現代のイラク南部)、東地中海沿岸部(現代のシリア、パレスチナ)、アナトリア(現代のトルコ。黒海南部沿岸)、そして古代エジプトに分けられる。
古代オリエントは、シュメールが活躍した紀元前4000年頃から、アレクサンドロス3世(アルゲアス朝マケドニア王国の王。後継者争いが生じるほどの覇権を握った。)が東方遠征をおこなった紀元前400年頃までを指すと言われている。
古代オリエントは、下記の古代エジプトの他、古代メソポタミア、古代ペルシアなどを含んだ呼称である。