anyoneとsomeone
If anyone comes, let me know.
「だれか」がきたら、知らせてください。の意味であるが、これは、「だれかは良くわからないけど、とりあえず、人が来たら知らせて」のセンス。
If someone comes, let me know.
「だれか」がきたら、知らせてください、の意味であるが、こちらは、「話し手の脳裏に、特定の人物」の姿がある。
この違いはどこから来たのだろうか。
anyとsomeはどこからきたのか
anyの由来は印欧祖語のoi-no、すなわち「1つの、単一の」である。実はyには弱い意味しかなく、基本的には「an」と類似した意味であるようだ。
どうやら、中期英語の時点で、「ani」は、「1つの」という意味自体は残しつつも、「不特定の」「いずれかの」という使い方がなされたいたようだ。そして、疑問文や条件文、否定文において用いられた。肯定文においては、aniの代わりに「som」が用いられていたようだ。
さて、someはどこからきたのだろうか。
実は印欧祖語のルーツはoi-noではなく、semである。
semも、「1つの」という意味ではoi-noと共通した意味があったようだが、ところがoi-noはuniqueというセンスを含んだ「1つ」であったのに対して、semは「一緒にtogether」というセンスを含んだ「1つ」であったようで、これは同じ1つであっても決定的に異なる部分である。
このセンスは、same(同じ)にも類似した起源があることから理解できる。
転じて、「同じような」から、「だいたい」の意味が付与されたこともある。古英語において、「sixa sum」現代でいうところの「six-some」のような使われ方もした。これは、「だいたい6」のような意味であった。
someは1つの、を意味する印欧祖語のsemから来たのは確かであるが、ともに、とか、一緒になる、とか、同じになる、とか、似たようになる、といった「合体」のニュアンスがあるように思える。それは、anyが独立した1つの、ユニークな意味を持つ印欧祖語のoi-noから由来していることと対照的である。
また、ギリシャ語のソーマ「soma」も起源は同じである。ソーマとは、体、死体、物質、転じて、魂を浄化する飲み物のような意味をサンスクリット語にてもっていたこともあるようである。
このsomaも、要するに、人の体というのは、最後には、1つの「何か偉大なもの(神、輪廻転生、大地など)」と「合体」するのであるというsemのセンスから派生したもののように思えるのである。だからこそ、体だけでなく、死体だとか、魂といった話がでてくるのではと思えるのだ。
とにかく、someとは現代英語においては、ある特定の1つを指しており、話し手のイメージの中に、明確な「特定の1つ」がある。起源であるsemが、「合体したりともに歩んだ結果として」「1つ」というセンスを含んでいることから、派生したsomeが、その1つに「こだわり」を持っていることは自然な解釈である。
印欧祖語のoi-noは1つの独立した何か、というセンスである。確かにこれも、「独立した何か」への「こだわり」があるかのように派生しても良かったのかもしれないが、少なくともanyという言葉に対しては、「独立していること」のセンスが強く出たのであろう。
転じて、「話し手には具体的に想像できないことであるが、独立した1つの」のセンスがanyにはある。
例えば、Is anyone in the office? であれば、話し手には誰がいるかの想像ができていないため、「だれかわからないけど、だれか事務所にいるのですか?」のセンスになる。
Is someone in the office? であれば、話し手は何人か候補を想像できているので、「いるとしたら多分、あの人か、あの人あたりだと思うけど、そのうちの誰かが事務所にいるのですか?」のセンスになる。
疑問文だからanyoneなのか?
上記の例を見てわかる通り、確かにanyは疑問文や条件文、否定文に使われることは多いのであるが、しかし疑問文においてもsomeoneは使われる。
というよりも、そもそもanyとsomeは、文章の種類で使い分けるわけではないのである。
印欧祖語のoi-noとsemのセンスの違いに着目すれば、anyには「具体的には想像できないけど1つの」の意味があり、someには「具体的に想像できる1つの」の意味があることは理解できるだろう。