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数学史

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問1 「数学の歴史について 人類の進化を絡めて 知るところを述べよ 」 解答難度 C

数えること自体は、類人猿などの一部の生物にも可能なことである。

ところが、数を「想像すること」や「数と数同士の相対的な関係性を理解すること」は難易度が跳ね上がる。

数を「取り扱うこと」を言語の一部として考えるならば、上記は外側前頭前野の発達と密接に関連している。そういう意味で、一般的には7万年前(諸説あるが、トルコのトバ噴火による寒冷化などの絶滅の危機に瀕した生物が、ボトルネック効果によって進化が促進された時期ではある)頃に、急激に言語が発達した可能性がある。

従って、学問としての数学は7万年前頃に始まったのかもしれない。ただし、65~35万年前頃から世界中で繁栄したネアンデルタール人(4万年前に絶滅)の中にも、奇跡的に外側前頭前野が適度に遅延して発達し、その未熟な間に入れ子構造の複雑な言語が発明されることで、結果的に数学のような概念が発明された可能性は完全に否定はでいない。そういう意味では、可能性としては65万年前から数学のような概念があったともいえる。ところが、突然変異の確率論でいえば、その可能性は極端に低く、現実的には7万年前頃から数学に近い概念がホモ・サピエンス・イダルトゥにおいてアフリカで発明され、その後、数学に近い概念によって得られた知識(季節の変動、月の満ち欠け、潮の満ち干、生理や妊娠の周期、食料の保管量、潮流の読み方、船の作り方、風読み、方角の星を用いた計算など)を用いて、当時難関であった出アフリカ(とはいっても80~40万年前頃に過去のホモ・エレクトス・ハイデルベルゲンシスのごく一部が成功させており、その一部がネアンデルタール人に分化したが)および世界進出を、ある程度容易にしたと考えるのは自然である。

また、ホモ・サピエンス・イダルトゥとホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)の一部は交雑しているから、その前後で、ネアンデルタール人に数学のような概念が伝えられ、承継されていった可能性は否定できない。それはデニソワ人も同じである。

氷河期と関氷期および海面の高さと陸続きであるか否かの条件に影響されるが、いずれにせよ、7万年前から1~2万年ほどかけて、ヨーロッパ、ユーラシア大陸、オーストラリア、東南アジア、そして日本にホモ・サピエンスが移動していったと考えるのが自然である。アメリカ大陸に到達するには5万年ほどを要したかもしれない。それは、氷河期で陸続きになっていた可能性が高いとはいえ、寒冷適応に必要な知恵の獲得や幸運に恵まれることに時間がかかったからであろう。ひとたびアメリカ大陸を南下してしまえば、比較的温暖な気候であるため、繁栄は簡単であっただろう。

ただ、早期に出アフリカを成功させたホモ・エレクトス・ハイデルベルゲンシスから分化したネアンデルタール人は、未開の地を開拓することに長けており、15~10万年ほど前にベーリング海峡を通過してアメリカ大陸に渡ることに成功した可能性がある。

(具体的には、マストドンの骨を石で割って骨髄を取り出そうとした13万年前頃の痕跡が見つかったらしいことなどが根拠)

ネアンデルタール人よりもホモ・サピエンスの言語能力が高いことは大きな傾向としては正しいと思われるが、ごく一部の集団において、言語能力の高いネアンデルタール人がいたとしても不思議ではない。また、開拓能力の高いネアンデルタール人が、何らかの孤立した島に早期に(65~35万年前ころ)到達し、独自の進化を遂げた可能性も、否定はできない。世界各地のオーパーツも、そのような理論で説明できるかもしれない。

また、ネアンデルタール人も、おそらく船を用いた航海の能力はあったと思われる。というより、マダガスカル固有種であるワオキツネザルは、急に出現したような種ではなく、驚くことに、海を越えて渡ってきた可能性が指摘されている。そう考えると、航海の能力が仮に低くとも、偶然が重なることで一定距離の海を越えることはありえたであろう。例えば、スンダランドから航海して日本に渡ったホモ・サピエンスは、もしかすると、先に住み着いていたネアンデルタール人と生存競争をしたかもしれないし、一部は交雑したかもしれない。むろん、日本周囲の黒潮をはじめとする海の地理的条件が、結局はネアンデルタール人の日本列島への進出を拒んでいたかもしれない。

ゆえに、日本列島における数学は、極端に低い確率としては、65万年前~35万年前のネアンデルタール人が数学に近い概念を用いていたかもしれないし、この確率よりはまだ高いが、低確率で、4万年前に日本列島にスンダランドから航海を成功させて住み着いたホモ・サピエンスが数学に近い概念を用いていたところから始まるかもしれない。

また、航海が得意だということは、星読み、方角の測定、月の満ち欠けや季節の概念、潮流の推定といった数学的能力と知識が必要である。むろん、キツネザルの件からして、ただ黒潮に乗って運がよくたどり着いた(というより、数多くの失敗から成功事例を学習しただけかもしれないが)ということもありうるが、脳の容量と言語能力から、我々のような複素数やベクトルの発明や集合知こそ無いが、数学的な直観力や知性そのものは、一部の個体において我々に近いか、あるいは凌駕することがあっても不思議ではない。そのような個体が、偶然にも独自の書き文字や書き数字、計算式を思い付き、それを利用したり承継していても不思議ではない。日本列島に一個体だけがたどり着いても繁栄できない。近縁同士の交配は種を滅ぼすため、それなりの個体数が日本列島にたどり着かなければならない。そのためには、それなりの数学的概念を用いた航海術によって確信をもって航海を成功させなければならなかったはずである。

ヒトは、必要によって進化を遂げる。航海術を必要とした集団は数学的能力に長けていた可能性が高い。また、氾濫を繰り返す巨大な河においては農耕の発明や治水および季節の概念が生き残りに必要であり、そのために数学的能力が鍛えられた可能性が高い。

上記を頭の片隅に置き、我々は今までの歴史の常識を大幅に修正する柔軟性が求められている。ただ、まずは7万年ほど前に数学のような概念が言語能力の発展とともに生じたと考えることが分かりやすい。

 

さて、氾濫を繰り返すナイル川を擁する古代エジプトにおいては、すでに素数や、かけ算の概念が登場していた。円や楕円などの数学的な概念も、紀元前に登場している。また、古代の人にとって、「無い」ことを、数字的に「ゼロ」と表現することは、おそらく画期的な考え方であった。

古代インドでは、十進法がすでに登場しており、直角を作る方法も登場していた。天体観測のため、角度を正確に測定する術も持ち合わせていた。さらに、円周率πの値を知っていたという説すらある。

ギリシア数学は紀元前500-600年頃に、タレスとピタゴラスが始めたとされるが、最古の数学というわけではない。おそらく、エジプト、メソポタミア、インドに影響を受けている。

(なお、日本に4万年前に到達したホモ・サピエンスと強引に関連付けるとすれば、そのような優れた集団は、各地で言語能力や数学的直観力を継承し、結果的にエジプト、メソポタミア、インドに影響を与えたのかもしれない。要するに、エジプトが最初だとかメソポタミアが最初だとかいうよりは、一部の優れたホモ・サピエンスが、世界進出する途中で優れた数学的概念を各地に残し、数万年かけて各地で花が咲いたと考える方が自然である。むろん、河川の周囲で農耕文化が発明され、その結果として都市が栄え、治世のために数学が発展したという流れはあるだろうが、それよりは、石などに文字を書き残す必要性が、都市の概念の成立とともに高まったことで、エジプト、メソポタミア、インド、ギリシア以外の当時、あるいは当時以前の高度な文明は歴史的に証明されるに至っていないと考える方が自然である。中国、オーストラリア、日本、アメリカ大陸においても何らかの文明が存在し(さらに言えば氷河期の関係で海に沈んだ東南アジアのスンダランドなどにも)、数学的概念はあっただろうと思える。

さて、ギリシア数学以前の数学の特徴は、帰納的推論であるといわれる。繰り返した観測、すなわち経験則によって証明を行っていた。対照的に、ギリシア数学は、演繹法である(定義や原理から結論を得る)。この頃から、無理数の発見、取り尽くし法(積分法のさきがけ)、「定義・原理・定理・証明」の流れ、円錐曲線など続々と研究が進んだ。特に、エウクレイデスの本とされる、ユークリッド原論は非常に影響力が大きい。また、偉大な数学者アルキメデスもこの頃登場した。都市の概念と記録媒体の出現および書き文字の出現によって、数学における集合知が形成され、その時点までの知識を保存できるようになったため、爆発的に数学的な概念が成長したのである。

 

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なお、ユークリッド原論は13章から成り、以前の数学的知識をまとめたものとされる(「原論」という名前は適切ではないかもしれない)。その中でも特に有名なものが、5つの公準と5つの公理である。

1:任意の一点から他の一点に対して直線を引くこと
2:有限の直線を連続的にまっすぐ延長すること
3:任意の中心と半径で円を描くこと
4:すべての直角は互いに等しいこと
5:直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が2直角より小さい場合、その2直線が限りなく延長されたとき、内角の和が2直角より小さい側で交わる。

この5つの公準は、我々には当たり前にも思えるが(驚くべきことに、5つめの公準が成り立たない幾何学として、非ユークリッド幾何学が後に登場した)、とりあえず、これを真であるとして受け入れることが必要だと提示されている。

5つの公理(9つとする説もある)は、以下の通り。

1:同じものに等しいものは、互いに等しい
2:同じものに同じものを加えた場合、その合計は等しい
3:同じものから同じものを引いた場合、残りは等しい
4:互いに重なり合うものは、互いに等しい
5:全体は、部分より大きい

これらも自明に思えるが、とりあえず、あらゆる学問に共通の真理であると明確に提示されている。

 

さて、バビロニア数学とは、ギリシア数学とエジプト数学が融合したものであり、後にヘレニズム数学、そしてイスラム数学として引き継がれていった。有名な六十進法はバビロニア数学を起源としている。

エジプト数学には有名なテキストがあり、幾何学、乗算、除算、分数、素数などについても記載されている。一次方程式の解法、円周率の近似値を得る方法なども記載されている。

さて、紀元前後頃、インド数学において、二進法のような仕組みが使用され、フィボナッチ数のような概念が誕生した。さらに、この時点で、超越数、集合論、対数、添え字、三次方程式、数列、組み合わせ、二乗、平方根などについての法則を発展させた。

西暦400~500年頃のインド数学において、三角関数を用いた天体観測や、無限小、微分方程式すらも登場した。7世紀には、明確に「ゼロ」を数字として用いられた。逆に言えば、ゼロの概念の成立にはかなり時間がかかったことになる。

ちなみに、記録こそ明確に残っていないが、実はインド数学の一部は、古代中国における方法であるという説もあり、中国における数学的発展も重要な要素である。

時代は9世紀、イスラム数学において、かの有名な天文学者フワーリズミーは「代数の父」と呼ばれており、インド数学を西洋に広める本を執筆した。共に本を執筆したアル=キンディーは、アルゴリズムの語源であり、彼の著書は代数学(algebra)の語源でもある。この頃から、アラビア数字(今の数字)が採用されている。

10世紀頃になると、行列の計算や、数学的帰納法の考え方が登場した。この考え方によって、二項定理や微分積分の証明が発展した。

12世紀になると、ユークリッド原論の平行線公理に不備があることが言及され、解析幾何学と非ユークリッド幾何学が生じるきっかけとなった。さらに、微分係数、ロルの定理もこの頃提示された。

14世紀になってくると、積分や不定積分、無限級数、テイラー級数、三角級数、非線型方程式の概念が発展する。

中世に入ると、ギリシア語とアラビア語の数学的文献がラテン語に翻訳され、ヨーロッパにおいても数学が発展した。

近代ヨーロッパ(1400~1900年頃)

14世紀ごろの大航海時代などでは、数学的な知識が、航海に実務的に必要となり、必要に迫られた数学的進歩が起こるようになってきた。

現在よく用いられる未知数xの記号は、16世紀末頃にようやく使われるようになり、便利になった。さらに、大きな進歩として、三次関数の解法、四次方程式の解法が挙げられる。

ガリレオは17世紀に登場した。有名人がこの頃続々登場する。天体観測のティコ・ブラーエ、惑星運動研究のケプラー、自然対数研究のネイピア、幾何学のフェルマー、座標研究のデカルト(哲学者でもある)、万有引力のニュートン、微分積分のライプニッツ、確率論のパスカル(宗教論者でもある)など、そうそうたるメンバーが揃っている。

18世紀にも有名人が多く、天才オイラー、波動方程式のダランベール、確率論のベルヌーイ、ド・モアブル、ベイズ推定で有名なベイズ、ラプラス変換で有名なラプラスなどが揃っている。

さらに19世紀、ここにきて、数学はどんどんと抽象的になる。天才ガウスによる複素解析の発展、非ユークリッド幾何学(三角形の内角の和が180度未満)、リーマンによる楕円幾何学および多様体(曲線と表面の概念をより普遍化したもの)の概念の誕生、ハミルトンによる非可換代数の概念、0と1のブール論理、カントールによる集合論の確立が挙げられる。

20-21世紀

数学は、必要に迫られてというよりは、アートの領域に達してきたともいえる。もちろん結果的に、その「アート」が実用的に役に立つこともあっただろう。

数理論理学、位相幾何学、カオス理論など、新しいジャンルが誕生した。

近年では、計算機の発展や、AI、宇宙への進出などを目的として、数学がますます発展してきている。