執筆者:悟りおじさんA(適当)
*本記事は悟りと勢いでAによって書かれたものです。情報の正確性を保証するものではありません。特定の団体を誹謗中傷する意図はございませんので予めご了承ください。
令和6年1月2日のJAL機炎上に対するNHK報道について
NHKの報道については、普段からところどころ違和感をおぼえる。天下のNHKとはいっても、たくさんの人間がかかわって番組ができている以上、受け取り方も様々である。違和感があること自体は報道にまつわる避けようのないものとして一応許容できる。
ところが、今回のJAL機炎上に対する報道については特に違和感が強かった。これがAの思い込みであれば良いのだが。
18時ごろの最初のライブ放送のようなものがなされたわけだが、まず最初に、JAL機炎上の様子をLIVE中継した。その際、消防車が消火活動にいそしんでいたわけだ。アナウンサーも、状況が呑み込めていない様子である(ここが問題)。そして、機体の前後2か所に脱出シューターのようなものが展開されている様子も画面におさまっていた。ここでアナウンサーは、すでに乗客が脱出したものと「信じたいです」というような発言をした。つまり、よくわかっていなかったわけだ。そして(このあたりの微妙な時系列の間違いはご容赦いただきたい)、アナウンサーは「この機体は新千歳空港から羽田空港にむかった516便ということが分かりました」ということを発表した。
さて、そこから数分間、炎が燃え広がる様子がライブ中継された。テレビを視聴していた関係者は気が気でないであろう。Aの知り合いも北海道と関係があり、場合によっては巻き込まれて焼死したことさえよぎった(という設定である…)。ところが、普段からNHKの報道に違和感をおぼえていたこともあり、今回も、「なんか変だな?」という感覚がぬぐい切れなかった。それが何なのかは今一つ言語化できなかった。
そして、その絶望的な様子を数分見せられた後、アナウンサーは「乗客は全員すでに脱出しており全員無事だということです」ということを告げた。関係者は安堵したことだろう。むろん、激突した衝撃で亡くなられた海上保安庁の5名の方々にはご冥福をお祈り申し上げる。
報道の順番が変?報道の目的とは
いくつかAはNHKのこの報道に言いたいことがあるのだが、まず第一に、下品ではないか?という話である。すなわちJAL機炎上という「ショー」を、「乗客が無事かどうかが不明な状態」でライブ配信しているわけである。
そもそも、このようなニュースというか報道には、いくぶんか見せ物としての側面があることは否定できない。人間は弱いもので、対岸の火事という言葉にもある通り、このような事件を知ることで、相対的な自身の安全を再確認し、安堵していくものである。
とはいえ、何事にも限度がある。JAL機炎上をライブ配信されて、喜ぶのは誰だろうか?普通の日本人は喜ばないのではなかろうか。NHKがこの報道をするときに、「報道の目的」という原則を考えたかどうかをAは問いたいのである。
報道は、地震速報などは情報を伝達する目的がある。その目的のためなら、どのような残酷な事実であろうが悲惨な描写であろうが、いくぶんか正当化される。そして、その情報をもとに行動を起こせるのだから、地震発生時の公共放送としてのNHKの役割は非常に大きい。
もう一つ報道は、娯楽を提供する目的がある。残念なことに、この娯楽というのは、本来の意味での楽しい報道やバラエティのみならず、広義では、残酷な事件のことも指す。怖いもの見たさであったり、対岸の火事といった昔からの成語が、そのような人間の弱さや好奇心は昔から変わらないことを示している。それは人間の負う「業」や「原罪」であり、恥ずべきことではない。
ゆえに、受け取り側、すなわち国民側が、勝手に娯楽として捉えることは、思想や感情の自由である。しかしその一方で、報道局側は、そのように受け取られることを主目的として、あるいは暗に意図して報道してはならない。そのような報道局側の意図は情報リテラシーを鍛えれば、驚くほど如実に読み取れるものである。
あくまで、残酷な事件などにおいては、注意喚起の意味合いであったり、今後の日本について思いを巡らせる参考になったりといった、意義のある受け取り方をされることを前提に報道すべきである。真実から目を背けてはならないが、何でもかんでも報道すれば良いというものではなく、ましてや、「ショー」としての側面を感じさせてはならない。
JAL機炎上という「ショー」?
非常に憤りをおぼえることは、報道の順番である。根本的な話、乗客の安否がわからない状況において、JAL機が炎上している様子を報道して、国民に何ができるのか、という話である。ただただ恐怖でしかない。地震速報のように、次の行動の参考になるわけでもない。画面の前のあなたがおそらく思うように、そもそも、この段階では報道する必要も意味もないのである。
仮に、一人でも乗客が生存していれば、その乗客から後で話を聞けるのだし、全員死亡であったにせよ、遺体がみつかるわけである。すなわち、乗客の安否は、数十分もすれば、まず分かるのである。不安をあおるライブ配信である必要がどこにあるのだろうか?
これはジャーナリズムでもなければ、真実を報道するという正義感でもない。これがジャーナリズムというならば、他にライブ配信で伝えるべき事柄が山ほどある。Aには、真実が分からないままに不安をあおる、たちのわるいライブ配信に思えてならないのである。他局に後れを取りたくなかったのか、何なのか不明である。JAL516便が炎上していることが全国にテレビを通じて通達されることで何かが好転しただろうか?それが、乗客の安否がわかる数十分すら待てないほどの緊急性があったのだろうか。非常に疑問である。
報道の自由や報道しない自由があるため、今回のNHKのライブ配信は、違法性は無い。しかし、報道するかどうか議論する余裕や報道を待機する道徳心に欠けている気がしてならない。暇空茜氏のcolabo報道についてもそうであるが、NHK職員全員とはいわないが、一部上層部に、道徳心に欠けた行動をしようとしている者がいると疑わざるを得ない。
あさイチでも「ネットの言説にはまってしまった親」などという話題が提供され、あたかもネットの言説は怪しいという論調であった。確かに、NHKの報道に比べれば、玉石混交であることに何ら異論はない。ただ、ネットはすでに地上波を切っても切れないものとなっており、そもそもNHKもネット進出しているわけである。結局のところ、どの団体が、誰が発信した情報であるか、という情報リテラシーの問題に帰結する。そういう意味では、ネットの言説にはまらないように、というNHKの指摘そのものは至極全うである。問題は、colabo問題の件の後でこの放送がなされたことである。このような露骨な話題はあさイチでもほとんど無かった。立花氏も指摘していたように、電通 vs Googleという構図なのか、地上波 vs ネットという構図なのか分からないが、天下のNHKにしては「必死」にあらがっているようにみえて、なんとなく気が抜けてしまうのである。
受信料を支払っているAとしては、NHKには、公共放送として、種々の事案に対して、報道するタイミングをよく考えてほしい。数字が取れるからといって、不安をあおるタイミングである、「情報が錯そうしているタイミングでのライブ感」を出そうというのは、Youtuberのやることである。天下のNHKは、いったいどうしてしまったのか。
正しい報道の順序?
JAL機炎上を報道局が把握する → 乗客の安否の情報があるかどうかを把握する → 安否不明であれば報道することをストップして待機させる → 安否情報が得られたら、安否情報とともに放送する ではなかろうか。
情報不十分なままにライブ配信すべき事例はある。噴火、土砂災害、ミサイル、地震、竜巻、逃亡中の犯人、そういったものは、現在進行形であって、どのように被害が拡大されるか分からないからである。ライブ情報に価値がある。ところが、飛行機が燃えていることについては、中の乗客が脱出できたのか、逃げ遅れたのか、それだけである。ライブ配信する意味はほとんど無い。滑走路を利用する他の飛行機についても、管制官が把握しているのだから、特に問題は無い。飛行場においては、目の前の滑走路で飛行機が燃えているのだから、アナウンスがなされている。別に問題は無いのだ。
さて、上述のAの違和感であるが、言語化するならば、「飛行機の内部に生存者がいた場合、炎の中で死んでいく様子をライブ配信するだろうか?」という疑問である。「あそこで人が燃えています!」とNHKのアナウンサーが報道している様子が想像できない。もちろんこれは、ライブ配信とはいっても、数十秒だとか数分のディレイが効いており、そのような事態になったならばカットされるというのは理解できるのだが、どうしても、「すでに乗客が内部にいないことを事前に通達されていた」からこそ、安心してJAL機炎上の様子を配信できたのではないか、という疑念がぬぐえない。
着陸時にJAL機と海上保安庁の機体が接触して炎上する様子が録画されており、ライブ配信中に脱出シューターが見受けられるのであれば、その間に、必ず、脱出している乗客の様子が録画されているはずである。あるいは、脱出できなかったという状況が録画されているはずである。
あのライブ配信は、空港のカメラなのか?NHKのカメラなのか?謎である。しかし、乗客が脱出したかどうかが一切不明な状態で、JAL機炎上の様子だけ報道したということが、引っかかって仕方がないのである。その一方で、実際に人が亡くなった海上保安庁の機体の方は一切カメラに映されていなかった。NHKは詳細をあらかじめ把握していたのではないか?
NHKが、視聴率のため、あえて不安をあおる方法や順番で報道してはいないか?という疑念のわいた報道であった。事実を報道したかったがゆえに、そのようなタイミングになってしまったと好意的に受け取ったとしても、しかし、国民に無駄に大きな不安を与えてしまうことを自覚したうえで、報道に踏み切ったのかどうかが大事である。道徳心を欠いた上層部が数名いるのであれば、NHKは今後、国民から徐々に見限られることになる。
Aは、NHKに対する一定の信頼はあるのだが、今後のNHKの報道には、(もともと興味は無くなってきてはいるとはいえ)何とも言えない疑念がつきまとう。株主の会社に対する発言権と同じく、NHKに受信料を支払っている者にはすべて、一視聴者として、情報リテラシーを鍛えたうえで、批判的吟味をもって報道を注視する資格がある。NHKに媚びる必要は無い。
いろいろ書いたが、「今は」がんばれNHK。NHK解体が一部有識者からも叫ばれているが、少なくともまだ早い。公共放送がなくなり、すべてが民間放送になるということだろうか?おそらく、「何かのタガ」が外れて、えらいことになるだろう。Aとしては、NHKは今の日本に本質的には不要な組織かもしれないが、公共放送という枠組みは必要と考えている。そして、NHKにとってかわる公共放送の組織ができあがるにはまだ早いと考えている。優れた政党、総務省を含む優れた官庁、優れた政策、国民の意識の変容、そういったものが一定のレベルに達したならば、NHKは自然に解体され、別の優れた報道局ができるのかもしれない。国鉄にせよ、郵政の民営化にせよ、良かったかどうかはさておき、大きな組織が変わることは時代の節目には必ず起こる。偏ってしまった日本は、本来の良き日本に向かって、変わっていくべきである。
以上、悟りおじさんA。