数学を学ぶ順番は自分が決めればよい
数学が難しいのではない。世の中が難しいのだ。
数学は、世の中を数を使って理解するためのツールでしかない。
数学が難しいのではなく、難しい世の中を何とか理解しようとしてきた試みが数学なのである。
数学そのものは難しくない。
数学はむしろ、難しい世の中を、いかに簡単な枠組みに当てはめられるか、先人たちが努力した結果生まれた「アート」である。
数学が難しいと感じるのは、テストのため、試験のために強引に自分の理解力や能力および記憶力、興味、好奇心からはみ出した範囲に対して意識を向けさせられているからだ。
強引に意識を向けさせられることに耐えられるような忍耐力のある人間が、学歴社会を勝ち上がり、世の中を支配するというのは、理にかなっている。もともと、試験とはそういったものだ。
数学を理解することと、試験を通過するために数学を強引に理解することは全く異なる次元の話である。
ブログの記事というものは、読むターゲット層を絞るのが鉄則である。しかしながら、この記事は、絞らない。何故ならば・・・・・・。
数学を理解する道筋は、その人の能力や脳の構造、生まれ育ち、言語、考え方、国語力、記憶力、世の中への興味によって全く違う。
したがって、数学を一から頑張って参考書を広げて読んでいくというのは、自分にとって最善の道でないことだけは明らかである。
ただし、平均的な日本国民にとって、それなりに理解できる「はず」の階段を先人たちが、ああでもない、こうでもないと頭をひねって作り出したのが文部科学省の教育カリキュラムである。教育カリキュラムそのものは、素晴らしいものであり、尊重するべきである。
小学校、中学校、高校、大学と数学の階段が積みあがっていくわけである。この階段は、補助的なものとして尊重しておこうではないか。
自分にとって理解しやすい道筋は、ほとんどの人が知らない。
異常に数学的能力の高い者というのは、教えられたことを理解する能力が高いわけではない。教えられていない「何か」を自ら見つけ出し、自分にとって理解しやすい道筋を、自然に補完する能力(本能に近い)に長けているのである。
ある程度、優秀な者というのは、教えられたことを的確に理解できる。
しかし、それ以上に優秀な者というのは、自分にとって理解しやすい道筋を勝手に補完しているので、例外なく、周囲から見てどうでもよい雑学に長けている。「そこまで頭が良いのに、そんな雑学を勉強する時間が何故あったのか」という疑問をおぼえたことがある人も多いだろう。
これはむしろ逆である。勝手に道筋を補完している過程で、自然に得た気づきや知識や「知識の枝葉末節」が、周囲から見れば雑学なのである。脳内のニューロンにおいては、それらはしっかりと繋がっているのである。雑学を勉強しようとしている者は、クイズマニアくらいのものである。
数学を学ぶ順番は、自分で決めればよい。
偉人の例をいくつか
河東泰之 氏
wikipediaに詳細が掲載されている。
東京大学教授で数学者の河東氏であるが、優れたpdfファイルをwebから入手できる。
氏の詳細については割愛するが、京都大学の小沢登高氏、同じく京都大学の泉正己氏などのように、「作用素環論」に非常に秀でた数学者の一人である。
おそらく、作用素環論を正確に説明できる人は日本人の0.01%にも満たないのではないかと思える。作用素環論という単語が一発で変換できないことも象徴的である。
wikipediaから引用すれば、「作用素環とはヒルベルト空間上の有界線型作用素(連続な線型写像)のなす複素数体上の線型環に適当なノルムによる位相を定めたもの」ということである。
作用素環は、環(加法について可換群(群とは特定の二項演算において、結合法則、単位元の存在、逆元の存在を認める集合を指す。特に交換法則が成立すれば可換群と呼ぶ。)、乗法の結合法則、乗法の単位元(加法の単位元とは異なる)の存在、分配法則の成立、の4条件を満たす集合を指す)の一種であり、多元環(≒線形環)の一種である。
可換体k(複素数体は可換体である)上の有限次元のベクトル空間にもなっているような環Rがあって、(*) λ∈k,a,b∈Rのとき λ(ab)=(λa)bが成り立つとき、Rを可換体k上の多元環という。
直感的には、とりあえず特定の「環」を先に定義しておいて、「その環を内包できるような可換体」を「いくつか」考える。その環が、ある「特定」の可換体kが形成する有限次元のベクトル空間にも偶然なっている場合であって、乗法において、可換体kの任意の元λと環の任意の二元a,bがλ(ab)=(λa)bという結合法則を満たしている環であった場合、その環を「可換体k上の多元環」と呼んでいるわけである。言い換えるなら、その環は、異なる可換体上においては多元環ではないかもしれないし、そもそも、その環にとっては、自身が内包される集合について議論しなくても、その環の構造は不変である。あくまで多元環というのは、ある特定の可換体上においてのみ成立するものである。
そして、定義上、多元環には必ずしも位相という構造が存在しないことも明白である。
位相を定めるためには、集合に対して、(多元環も結局は集合の一種であるから、多元環に対して、と言い換えてもよいが)開集合系を定義し、O1~3を満たすことが条件である。
しかし、位相を定めるためにはノルムは必須ではないはずである。
ここで、位相の定め方は一意に定まらないということを考えておく。
ノルムについてはこちらが分かりやすい。
とりあえず、ノルムとは最初から備わっているのもではなく、線形空間に対して「与える」ものであるようだ。ノルムを与えることで、俗にいう「距離」のような概念を定義して、しかも位相(特定の条件を満たす開集合系)を定めた多元環こそが、作用素環なのである。
作用素環は、ヒルベルト空間上において成立しうる(ユークリッド空間上と限定していない)。
作用素環は、複素数が形成する「体」において定義できるが、その「体」はヒルベルト空間上において連続した線形写像がなしている(不連続であってはならない)。すなわち、ベクトル情報を保存できる形であれば、いかなる連続した線形写像も許容している。ベクトル情報こそが重要であることを示している。
写像とは、集合の元Aからただ一つの元Bが定まるような「規則」がある場合、その規則を写像とよぶ。もちろん、元Cからも元Bが定まっても写像としては問題ない。
線形写像というのは、あるベクトル空間をもう一つのベクトル空間に移すようなタイプの写像を指している。直感的に、最もわかりやすい平面で考えてみる。
平面を自分自身に写す写像fが、直線を直線に写し、原点を原点に写すとき、すなわち直交座標系に関して、
f(x,y)=(ax+by,cx+dy)
(a,b,c,dは定数)
の形で表されるとき、fを平面の線形写像という。
平面においては、原点(0,0)という直感できるものがある。例えば原点を中心にした回転変換は、線形写像である。原点を中心にした対称変換も線形写像である。
ところが、平面において、直線をy軸方向に1動かすような平行移動は、確かに一つの点からただ一つの点が定まり、その集合が直線になっているため、写像ではあるのだが、上記の
f(x,y)=(ax+by,cx+dy)
を満たしていないことがよくわかる。
x-y=0の写像としてx-y+1=0を考えると、どのようにa,b,c,dを定めたとしても、定数項「1」を作ることができないことは自明である。
直感的には、線形写像というのは、原点との関係性が失われないような写像なのである。
ゆえに、そもそも原点からのノルムで論じられるベクトルの話が出てくるのである。
作用素環とは、(様々な定義が成立する)多次元空間において、線形写像(不連続ではない写像であって、構造を壊さずに空間から連続投射された「元」の集合(イメージとしては、元がいくつも集まっているというよりは、類似しているが新たな「空間」ができあがっている))がなしている複素数体における「多元環」(多元環の分かりやすい例としては、下記のサイトにあるように、複素数体における二次行列全体が成す集合は、多元環の条件を満たしている。)に対して、・・・・
ここまではわりと理解しやすい。要するに、多次元空間を投射してできた空間において、多元環(≒線形環)なる集合を考えるだけのことである。
次の、「適当なノルム」とはいわゆる「長さ」を4次元以上に拡張した考え方のことである。
「位相」というのは、こちらのサイトにもあるように、俗にいえば「距離感」「位置関係」とも解釈できるような言葉でもあるし、むしろそういった余計な先入観を排するための概念ともいえる。
どちらかといえば、位相というのは、グループ分けのための概念に近い。
集合に、開集合系という「部分集合(=グループわけ)の族(あつまり)」
を指定することで,われわれは集合の元をばらばらに扱うのではなく,
「脳内のタンスたち」と同じしくみで,漠然とではあるが,
整理整頓することができるようになる.
定義(開集合系・位相・位相空間): 集合 Sにたいし,部分集合の族(あつまり)O が S
の開集合系であるとは,次の条件(O1)-(O3) を満たすときをいう:
(O1) S∈ O かつ ∅ ∈ O
(O2) m∈ N,O1,…,Om ∈ O =⇒ O1 ∩ · · · ∩ Om ∈ O
(O3) 任意の集合 Λ(添え字の集合) にたいし,各元 λ∈ Λ から O の元 Oλ ∈ O への対応を与えたとき,∪λ∈Λ Oλ ∈ O (∪は和集合を指す。O3はいかなるOの部分集合(無限個であってもよい)から形成される和集合であっても集合Oの部分集合であることを条件としている。)
集合 Sに開集合系 O が与えられているとき,「O は Sに位相(構造)を定める」もしくは
「SにはO による位相(構造)が入る」といい,O の元を開集合(open set) とよぶ.この
ような位相構造が定められた集合 Sを位相空間(topological space) という.
空間という言葉は、我々にとっては3次元の空間に思えるが、数学でいえば、特定の条件を満たす集合が存在して特定の挙動を示す「構造体」を指しているように思える。
位相空間というのも、「開集合系が与えられた特別な集合(位相を定められた集合、あるいは位相構造を入れられた集合、とも言い換えられる)が特別な挙動を示すことができる構造体」と解釈すれば、それが3次元的な「空間」としての挙動を示していなくても問題ないことがよくわかる。
開集合系というのも、直感的には何とも言えないが、元を用いてありとあらゆる部分集合を考えたときに、(O2)にあるように、その部分集合同士を「かつ」でつないだ共通の元が、もともとの集合の元として存在しており、また、(O3)にあるように、部分集合同士
(なおこの部分集合の「添え字」は、整数であるとはどこにも書かれていない。概念的には、実数の添え字をも許容している。「部分集合その-√2」などというものも許容している。とはいえ、部分集合の添え字が整数であろうが実数であろうが、部分集合というものはもとの集合の元以外からつくられることは決してあり得ないから、結局同じことである。直感的には、いかなる元をいかように用いた部分集合をどのように和集合として組み合わせたところで、結局はもとの集合の部分集合として存在しているという意味である)
を「または」でつないだ和集合が必ずもとの集合の部分集合として存在しているような、部分集合の族(あつまり)を指しているにすぎない。開集合系といっても、集合の元を駆使して作られた部分集合のあつまりでしかない。
多元環については、こちらのサイトが分かりやすい。
環Rがあり、それが可換体k上の有限次元のベクトル空間にもなっていて
(*) λ∈k,a,b∈Rのとき λ(ab)=(λa)b
が成り立つとき、Rを可換体k上の多元環という
ややこしいことに、上記サイトにおいて、多元環というのは線形環と同一の意味であると記載があった。こういう表現は統一してもらいたいのだが、ただ、厳密には、「巡回線形環」を多元環としている記載も発見できたので、何とも言えない。とにかく、線形環という表現のほうが少数派であるように見受けられる。
直感的に言えば、ヒルベルト空間とは、我々が直感的に認識できる3次元の世界を、その性質を引き継ぎながらも4次元、5次元と拡張した空間である。そのような空間が存在するかどうか、という議論は全く無意味である。数学は、定義できてしまえば、我々が認識できるか否かにかかわらず、「存在」するのである。
なお、数学における「存在」についてはこちらのブログが大いに参考になる。
連続な線形写像とは、わかりやすく言えば、直線を直線に移すような写像であって、ベクトル空間の構造を保つような写像である。
複素数全体集合は、もともと「体」を成すので、複素数「体」は複素数と読み替えても良い。
群、体、環についてはこちらのpdfが分かりやすい。
集合Sの任意の元a、bに対して二項演算μを考える。
特定の二項演算μに対して(ここが重要)、結合法則、単位元の存在、逆元の存在が認められれば、「集合Sは二項演算μに関して群G(Group)である」と表現することとする。
この定義は特に違和感がないが、下記のように、環や体の定義が二項演算のうち「加法と乗法に特化している」ことを考えれば、二項演算全般に対して定義された「群」という考え方が、かなり「広い」ものであることに気が付けるかもしれない。
なお、交換法則は必ずしも成り立たないため、交換法則が成立する群を可換群(アーベル群ともいう)と呼ぶことにするが、意外と見落としがちなことに、正確には、集合Sは「(例えば)加法に関して」可換群Gである、などの表現になることに着目したい。二項演算の種類によって可換であるかどうかが変わってくるというのが、群を直感的に理解できるまでに時間がかかる原因である。
さて、では、体とは何か。「体」上の「環」とは何か。
環とは、集合Sに対して、加法と乗法を定義し、「加法に関して可換群である」、「乗法について結合法則を満たす」、「乗法について単位元が存在し、かつ加法の単位元とは異なる」、「分配法則(加法と乗法の合わせ技)が成立する」の4つを満たすものと定義する。
すなわち、加法と乗法しか定義していないことが、環を直感的に理解するためのちょっとした障壁となっている。なお、乗法について可換であるかどうかは環の条件ではないため、乗法について可換である環のことを可換環という。
さて、「体」は最後である。
可換環において、加法の単位元(0)以外の元が乗法の逆元をもつときは、体と呼ぶこととする。
つまり、体は条件がかなり厳しい。整数の集合体は例えば3の逆元1/3を元に持たないので体ではないのだ。
また、体をわかりづらくしている要因が、体は可換環の一部であり、可換環は環の一部であり、そして、環の定義は、二項演算全般ではなく、あくまで加法と乗法について、上記の4つの条件を満たすという点のみであることがあげられる。
言い換えれば、体の条件をさかのぼれば、二項演算のうち、「加法と乗法」の条件に限定されており、ほかの二項演算については何も定義が無いことになっている。
さてここで、
ベクトルの乗法、すなわちベクトルにそもそも掛け算が定義されていたかどうか、という素朴な疑問については、こちらのサイトが非常に有用。
また、複素数を超複素数に拡張することについて直感的にわかるサイトはこちら。
上記2つのサイトから導かれる「気づき」は、何だろうか。
「平面ベクトル」において、加法、減法は定義されているが、内積では結果がスカラーになり、外積では「結果が空間ベクトルになる」(こちらのサイトの絵が分かりやすい)。
「空間ベクトル」において、加法、減法は定義されているが、内積では結果がスカラーになり、外積では、「結果が任意の2つのベクトルによって一意に定められる平面に対する法線ベクトルになる」。
平面ベクトルにおいて、ベクトル同士の「直感的に理解できる掛け算」というものは定義されていない。内積も外積も、左辺と右辺が根本的に「異なる性質のもの」であるからだ。ところが、平面ベクトルの軸を、仮に実数軸と虚数軸に定めた場合に限り、複素数の乗法の定義にのっとり、「平面ベクトルの積」なるものを定義することが可能である(数学的に地位を得た「積」とはいえないが、ベクトルから複素数を解釈するためには非常に有用な観点である)。
空間ベクトルにおいても、同様に空間ベクトルの積なるものを定義することが、おそらく可能ではないだろうか。ところが、基底元が2個の複素数では定義できないだろう。そこで、基底元が3個の超複素数を対応させれば空間ベクトルの積なるものを定義することが可能となりそうである。
ただし、実際は三元数なる環を形成することは現代数学では不可能である(こちらのyahooの質問の返しが実に優れている)ため、四元数を用いて空間ベクトルの積の定義することが考えられる。ただ、理論的には、三元数でないならば、これは八元数でも良いことになるかもしれない。
結局、多次元ベクトルに対して積なるものを超複素数を基底元として対応させて定義することが可能となりそうである、という話であった。上記は、その最も単純かつ高校数学に直結した例であろう。
さて、例えば、一橋大学の川平友規教授が非常に直感的で優れたpdfをwebに掲載しており、位相空間についてはこのpdfでかなり理解できる。
位相幾何学などについてのおすすめ参考書をまとめた佐藤隆夫教授の優れたサイトはこちら。
さて、作用素環は決して意味不明な難解なものではないのであるが、しかし、直感的ではない部分を多く含んでいる。河東氏は、いかにして作用素論の学者になったのか興味がわかないだろうか。
通常はそれを知ることは不可能である。本人が公開しないからである。
ところが河東氏は、自身の数学史の変遷を公開してくださっている。
実にありがたいことなので、後学のために参照していく。
河東氏の数学歴について検証
ご本人に失礼の無いよう、本人作成のpdfファイルの内容を正確に読み取っていく。
1:小学生の頃、計算が得意
2:小学生の頃、「方程式」の存在を知り、中学校の問題集を自主的に購入
3:中学受験に算数ではなく方程式の知識を活用してむしろ楽になった
4:小学生の頃、家にあった数学の一般向けの本で「デデキントの切断の問題」があり、どうしても理解できなかったことが強く印象に残った。
5:中学入学直前、前から興味があった微分積分を勉強しておきたくなり、多項式については微分積分の自学が中学に入る前に終わった。
6:中学校入学後に、三角関数や指数対数関数の存在を知った。ゆえに、それらの微分積分についてもできないことに後で気が付いた。
7:6の気づきと同様にベクトルや行列についても学習を飛ばしていたことに気が付いた。そこで、三角関数、指数対数関数、ベクトル、行列、そして、これらの微分積分を学んだ。
8:中学1年の夏ごろから、「大学への数学」などを熟読した。
9:同時期頃、「大学への数学」に記載された大学受験問題を解いたり、数学セミナーを読んだり、数学セミナーで知った「解析概論」を買ってきて読んだりした。
10:上記の本の内容としての「群論」はこの時期に触れた。同時に、線形代数もこの時期に触れた。氏に与えた「解析概論」の影響は大きい。
11:解析概論に記載されたε-δ論法などの解析学を熟読して理解することで、上述のデデキント切断が理解できるようになった。
12:上記から自明であるが、初等幾何よりも先にベクトル、三角関数、複素数を学ぶこととなった。ゆえに、幾何学的な方法以外に証明できる方法を知っていたため、そこまで幾何学的な証明に興味がわかなかった。初等幾何学においては式を使わずに幾何的に証明がなされることが多いが、そのことについていまだに氏はピンとこないことがある。
13:ルベーグ積分、関数解析、数学基礎論などを多数の本を購入して読んだ。超準解析に興味を持った。なお、よくわかった本もあれば、まったくわからない本もあった。ブルバキの日本語訳や岩波講座の基礎数学も購入した。
14:上記のような高校時代を過ごし、東大理科一類に進学した。アールフォースの複素関数論や、ルーディンの解析の本などの輪読会を東大内のサークルで実施した。
15:東大数学科において専門を決める時期が来た。C*-algebra extension and K-homologyを参考書として選んだ(C*-環の本)。作用素環についてはこの時点で知識があった。また、関数解析とホモロジー代数にきょうみがあったため、さらに作用素環を追求していくこととなった。なお、東大において当時、作用素環を専門に勉強している人はいなかった。
16:作用素環との関連として、Atiyah-Singerの指数定理、結び目のジョーンズ多項式が挙げられた。ただ、その関連性については当時よくわかっていなかった。
17:岩波の「作用素環の構造」とは別方面の作用素環から勉強をスタートしたため、その後の氏の専門となるような作用素環については当時はよく知らなかった。「先生」として学生相手にセミナーをするために標準的な教科書を読むようになって初めて、「偏った知識」がまとまってきた。
18:大学院生時代に海外と交流したことが今現在でも続いている関係で、氏の論文の共著者の大半は外国人となっている。
19:子供頃から大学レベルの数学を理解できることは実はそれほど珍しくはない。飛び級制度がないため目立たないだけにすぎないと考えられる。
河東氏から学ぶこと
「東京大学に入学するために必要な数学的能力をどのように得るか」は全く別の話題であるが、少なくとも「数学的興味を持っていること」と「本を購入する行動力があること」が氏の根源にあるように思える。
数学を学ぶことにのいて、小学校、中学校、高校という枠組みがいかに無意味なものかということを考えるべきである。
学校の枠組みやカリキュラムは、あくまでカリキュラムでしかない。興味のあることを、わかるところまで本を読むだけで、大抵の問題は解決するはずである。
一からしっかり勉強する必要は、全くない。
ただし、そもそも「興味がわかない」のであれば、仕方がない。興味を沸かせる方法は多岐にわたる。
数学が嫌いな方へ
数学が嫌いで、かつ、数学に興味がわかない方については、素直に数学以外の何かの能力を伸ばすほうが良いように思える。その結果、ひょんなことから数学に興味をおぼえる可能性もある。
数学が嫌いだが、興味はあるという方については、学ぶ順序が「自分用」ではないのだ。好きな分野を好きに学べばよい。受験などで時間制限がある方も多いだろう。そこについては状況によってアドバイスの内容が多岐にわたるため、何とも言えないのだが、わからない問題を必死に考えるよりは、本屋に行って片っ端から立ち読みして好きな本を買ってくるほうが良いように思える。
補助として、当サイトにも数学を理解するための情報を落としていく。