キムテヨン氏の主張を考える
れいわ新撰組が公認しているキムテヨン氏であるが、
純粋な日本人が考えるべきは、
私は「すべての国民のための政治」ではなく、この日本社会に住むすべて住民のための、すべての住民のしあわせのための政治をしたいと考えています。
この文言であるように思える。
先に述べておくと、キムテヨン氏という一人物に対しての言及は避けておく。在日外国人の過去について、我々純粋な日本人が安易に述べることはあまりにもおこがましい。そして、むしろ、通名を捨てたことについては評価されるべきである。後ろ暗いことが無いならば、本名で堂々と活動すべきである。
通名が多いことこそが、在日外国人への嫌悪感の一つの根源的な理由になっている。名前を隠してまで何がしたいのか?という話である。
そこよりも、在日朝鮮人であって日本国籍を取得した人を、公認している党がれいわ新撰組であるという事実と、上記のような文言をどう捉えるかという話である。それは後述する。
さて、「異形を恐れるは無知ゆえである」という基本原則がある。確かに純粋な日本人にしてみれば、在日朝鮮人に対して、むろん、寛容であろうとする「やさしさ」は持ち合わせているが、生命的な本能として、部族的な直感として、「安易に交わることは危険である」という防衛本能があることも事実である。そういった異形を排除しようとする本能に対して、誰も非難は出来ない。
また、多民族共生社会そのものは、概念として、そして国家システムとしては、全く持って悪ではないということを述べておく。実際に、アメリカのような移民大国においては、それは一定の成功を収めている。
ここで、問題は大きく二点ある。一点目は、多民族共生社会が、日本の特性に合致しているかどうかである。
草食動物に対して、栄養価が高いという理由だけで肉を与えて、食べるかという話である。
日本国家に対して、目先の国力(?)を上げるという理由だけで、マイノリティである在日外国人だとか、賃金を安く抑えられる出稼ぎの外国人の雇用を増やすべきかどうかという話である。
もう一点は、純粋な日本人以外の在日外国人の、量と質の問題である。
現状の投票率をみても、移民政策に失敗したヨーロッパ諸国をみても、10%程度、参政権をもった在日外国人がいれば、政局は大波乱となり、国家は転覆する。革命が起きる。
これは簡単なことで、マイノリティというのは、マジョリティから迫害されていることが多いので、投票には熱心である。そして、共通の「マジョリティを排除する」という目的のために一致団結するのである。
マジョリティは、マジョリティの内部で対立するわけで、予想以上にこの10%は重くなる。20%を超えると、完全に乗っ取られてしまう。
もちろん、外国人参政権を与えなければ済む話であるが、外国人参政権を与えようとする政策が、利権や裏金まみれの自民党において、通らない保証はない。
なおのこと、そもそも上記のような主張をするものを公認しているれいわ新撰組が与党になれば、外国人参政権など、またたくまに採用されることであろう。
ただし、この流れは「悪」ではない。純粋な日本人を大切にしようとする勢力と、日本に「住んでいる者」を大切にしようとする勢力が戦っているだけの話である。
さて、純粋な日本人だけでは日本国家が成り立たないという状況であれば、海外から優秀な人材を招いて、その一部に日本国籍を与えて永住させることで、日本という国家全体が強くなるという理屈は成立する。
外国人参政権だとか移民を受け入れるというのは、そういう話である。「純粋な日本人だけでは日本国家は保てませんよね?」と言われていることと同じである。
日本人よ、立ち上がれ、今こそ戦う時だ、というのは、そういうことである。大和魂を今こそ見せつけるときである。情報リテラシーも身に着けず、日本とは何かを学ぼうとせず、選挙にも関心を示さず、投票行動も行わず、政党を立ち上げる勇気もない状況では(そしてそれは、そのようにコントロールされてきたという側面もあるが)、純粋な日本人の給与が税金という形で無残に巻き上げられ、無駄なバラマキに使われることは必然である。
生活が苦しいから節約生活をするのではない。
生活が苦しいから投票するのである。
生活が苦しいから政党を立ち上げるのである。
生活が苦しいから立候補するのである。
立候補についてはパトロンが必要である。
さて、上記の文言については、要するに、日本国籍を有する者のための政治ではなく、日本に住んでいる者のための政治をしようとしているわけである。
それが、れいわ新撰組である。それだけのことである。
パフォーマンスの目立つ山本太郎氏の各々の行動が議論されているが、比較的、その一つ一つはどうでもよい。
もともと役者であったため、人を引き込む力はある。
しかし、消費税をゼロに、インボイス撤廃などは響きの良い言葉ではあるが、基本的にれいわ新撰組に投票するということは、外国人参政権を認めるということである。
最も大切な「国家感」が合わない政党が、いくら耳触りの良い税金対策、経済対策を口にしていても、投票してはならない。
山本太郎氏の人格そのものは、否定すべきではない。むしろ、彼に勇気づけられた人間は一定数存在する。
ところが、山本太郎氏の行動が結果的に日本という国家をどのように変えてしまうのかについてろくに考えもせずに、彼のカリスマ性にひかれてれいわ新撰組に投票するのはあまりにも危険であると言わざるを得ない。
一応述べておくと、自民党の中にも帰化して通名で活動している政治家は一定数存在するだろう。それを詳細に調べる必要も時間も国民にはないが、重ねて、在日外国人が悪いとか、帰化が悪いということではない。
重要なのは、投票先が、外国人参政権に対して、賛成派か、反対派か、ということくらいは把握したうえで投票すべきという話である。
そして、日本より先に移民を推し進めてきたヨーロッパ諸国がのきなみ酷いことになっているという事実をどうみるかである。日本では大丈夫などと甘いことを考えてはならない。
なお、山本太郎氏の勢いそのものは目を見張るものがある。日本の国力を高めるために、その勢いを使ってくれれば、それほどありがたい話はないわけであるが、うまくいかないものである。
被災地でカレーを食べたとか、松葉杖をついていたとか、そういった些細な話は、まったくもってどうでもよいのである。彼の人間性について論じることすら無意味である。要するに、所属する政党が何を目指しているのか、という話である。