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セレウコス朝シリアとパルティア

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セレウコス朝シリアとパルティア

前356年から前323年まで生きたとされるアレクサンドロス3世は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国の王であり、強大な王国を築いた。

いわゆるアレクサンドロス3世の「後継者争い」が生じた。後継者の候補の一人であるセレウコス1世ニカトルが「セレウコス朝シリア」を紀元前312年に設立した。

しかし、後に、セレウコス朝シリアからバクトリア(紀元前255年から紀元前139年。)とパルティアが独立した。

紀元前247年から紀元後224年までは、パルティア朝が古代イランの王朝として栄えた。なお、アルサケス朝パルティアという記載でもよい。古代中国においては、安息という呼称もあった。

パルティアの支配地域は、現代のイラク、トルコ東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタンの西部である。

紀元前247年からの初期においてこそ、その敵は西のセレウコス朝シリアであったものの、ローマ帝国にセレウコス朝シリアが紀元前63年頃に滅ぼされたため、紀元前1世紀以降においては、パルティアの主な敵はローマ帝国であった。

時代が飛ぶが、最終的には、内乱による国の弱体化をつく形でサーサーン朝(紀元後226年から651年。ササン朝ペルシアとも。)に取って代わられることで、パルティアは紀元後228年頃に終焉を迎えたと言われている。

ただし、アルサケス朝パルティアは、アルメニア王家、イベリア王家、アルバニア王家として、その流れを残している。

ちなみに、紀元前247年にアルサケス朝パルティアを興したアルサケス1世は、イラン系であって、遊牧民であった。

パルティア地方でみると、紀元前550年から紀元前330年に栄えたアケメネス朝ペルシア(ペルシア帝国とも)が、メディア、リュディア、新バビロニア、エジプト第26王朝の4王国すべてを統一したところから始まる。

アケメネス朝ペルシアは、マケドニアのアレクサンドロス3世によって紀元前330年に滅ぼされたのであった。

その間はパルティアはアケメネス朝ペルシアの支配下にあったのだが、その後は、アレクサンドロス3世の後継者の一人であるセレウコス1世によるセレウコス朝シリアの支配下にうつった。

そして、まずはバクトリアにおいてディオドトス1世がセレウコス朝シリアの支配から独立し、パルティアにおいても、アンドラゴラスがセレウコス朝シリアの支配から独立した。

ところが、アンドラゴラスはアルサケス1世に敗れるのである。ここで、アルサケス朝パルティアが紀元前247年において始まるのである。

なお、セレウコス朝シリアはこの頃も滅亡してはいなかったものの、ローマ帝国の脅威にさらされてはいたため、パルティアを再び制圧することはできなかった。

さて、セレウコス朝のアンティオコス4世は、紀元前170年頃、アルメニア王やメディア王がセレウコス朝の統治から独立しようとしていたため、その対処に追われていた。

一方、パルティアのミトラダテス1世は、紀元前155年頃に、メディアを制圧し、紀元前140年頃にバビロニアをも制圧した。この頃、セレウコス朝にも勝利し、パルティアの支配領域は強大なものとなった。

ところが、セレウコス朝のアンティオコス7世は、紀元前130年頃、パルティアの支配下であったメソポタミアの奪還を試みた。そしてバビロニアおよびスサを制圧した。

ところが、結局アンティオコス7世はメディアにてパルティア軍に敗北した。

パルティアは西部においては栄えていた。

一方で、中国の話であるが、紀元前200年頃、遊牧民の「匈奴」に敗れた遊牧民の「月氏」によって、バクトリアからパルティアまでおいやられていたサカと呼ばれるスキタイ人がいた。

サカ人は傭兵として雇われたりもしたが、反逆などによってパルティアの王プラアテス2世は敗北した。

ここで、紀元前124年に、ミトラダテス1世と同じく、非常に優秀な王として知られるミトラダテス2世がパルティアの王となった。ミトラダテス2世は、サカ人に奪われた領土の回復やバビロニアの領土回復などを行った上、アルメニア王国をも撃破した。

おそらく紀元前120年頃、パルティアはローマ帝国と「ユーフラテス川を国境とする」ことについて合意に達したとされている。

パルティアの広大な支配領域によって、紀元前1世紀における「インド・パルティア王国」が生まれた。この王国は、現代のアフガニスタン東部も支配下におき、インダス川流域のサカ人も支配下に置いていた。ただし、実は、この「インド・パルティア王国」と、いわゆる「パルティア王国」が本当に同一かどうかについては議論の余地がある。

また、紀元前92年頃、パルティアはセレウコス朝シリアに勝利している。

ところが、統治を分割してからは、一時的に国力が下がった。

さて、紀元前50年頃、共和政ローマとアルメニアは同盟を結んでいた。ところが、カルラエの戦いにおいて、パルティアはクラッスス率いるローマ軍を撃退した。

マルクス・リキニウス・クラッススは、当時共和政ローマから、帝国ローマに移行する間における三頭政治を担っていた。

従って、クラッススの敗北は、ローマにとって非常に重要な敗北であった。

パルティアは勢いづいたものの、ローマの反撃によってレヴァント地方から撤退したり、シリアにおいて敗北したりもした。

ここで、紀元前38年から紀元前2年頃まで即位するプラアテス4世がパルティアの王となったが、プラアテス4世の血族及び貴族の追放などを行った。しかし、軍事的な能力が高く、パルティアはローマからの攻撃に耐えることに成功した。

さて、ローマ内において、紀元前31年、アクティウムの海戦においてオクタウィアヌスはアントニウスに勝利した。そして、アウグストゥスの称号を得てローマの初代皇帝となった。

いろいろあったが、パルティアは紀元後50年頃、アルメニアを確実な支配下に置くことに成功した。しかし、アルメニアのアルサケス王家は、パルティアが滅亡したのちも生き残った。それが、グルジアにおけるアルサケス朝のイベリア王国であり、アルバニア王国である。

紀元後58年、ローマ軍によってパルティアおよびアルサケス朝アルメニア軍は敗北した。しかしただちに、パルティアはアルメニアを奪還した。このローマとパルティアの戦争は58年から63年の5年ほど続き、63年に和平条約が結ばれた。

アルメニアをめぐる戦いは激しかったが、この63年の妥協ののちは、かなり長い和平が続いたのであった。

ここから116年頃にかけて、ローマは支配領域を拡大していった。

パルティアは、和平が続きはしたが、同時に、分裂の危機と、内乱があった。

なお、ローマの王トラヤヌスの後継者であるハドリアヌスは117年から138年の間に即位したが、ローマとパルティアの国境がユーフラテス川であるという過去の合意を強調した。パルティアとの戦争による疲弊を嫌ったことと、パルティアがまだ強かったことを示唆しているだろう。

ところが、197年頃になると、ローマを統治したセウェルス帝のパルティアへの侵攻や、撤退の動きがあった。このころから、そもそもパルティアについての情報が少ない。

アルサケス朝パルティアのアルタバノス4世はローマ軍を217年頃破ったのであるが、サーサーン朝によってとうとう滅亡するのである。

ただし、パルティア王がただちに処刑されたわけではなく、紀元後228まで、パルティア王ヴォロガセス6世がサーサーン朝と同時期に存在しており、セレウキアにおいてコインを発行していたことから、紀元後228年あたりがパルティアの終焉と考えられている。